梅照院(新井薬師)新井薬師前駅徒歩10分 |
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新井山梅照院薬王寺と号し、新義真言宗の有名なお寺です。 本尊の薬師如来は座像の石仏で、50センチメートル程の厨子に安置されています。 この薬師如来は、子育薬師、治眼薬師として信仰され浅草の浅草寺と並ぶほど有名だったそうです。 毎月8の日には、縁日が開かれ出店が連なり、大勢の人でにぎわいます。 また、山門を入った左側に、新井薬師再建供養塔があります。 これは、新井薬師(梅照院)の再建に尽くした住職・運樹の業績と信徒の信仰心にこたえるため、安永8(1779)年後継者の英俊が高野山延命院の引導地蔵尊を模して建立したものです。 碑文によれば、
「梅照院は、天正14(1586)年行春が建てたことに始まる。 本尊の薬師仏は弘法大使手刻といわれている。住職が薬師仏のお告げでつくった小児の妙薬(夢想丸)は、どんな難病にも効能があった。延享元(1744)年運樹が住職に迎えられると御利益が広がり、いっそう寺運が盛んとなった。明和元(1764)年に焼失し、老僧運樹は直ちに仮仏殿を造り、さらに本堂再建の大願をたて、趣意書を示して広く喜捨を募った。 しかし、明和4(1767)年本堂の建立をまたず75歳で没した。あとを継いだ英俊は、十年以上も苦労の末、安永8(1779)年の春、ついに本堂の落成に至った」ことが記されています。 |

北野神社(新井) 新井薬師前駅徒歩10分 |
新井薬師公園の隣りにある神社です。11月の酉の市では、縁起物の熊手などが売られ、にぎわいをみせます。 境内のすみには、力石が置かれています。これは、昔、若者たちが力くらべに使ったものです。 現在とは違い、娯楽の少なかった時代には、祭りの日に若者たちが大きな石を持ち上げて、その力を競い合い、持ち上げた石に重量や姓名を刻んで奉納しました。刻まれている銘文から、25貫目(約93キログラム)~48貫目余(約180キログラム)までの石を持ち上げ、奉納したことがわかります。 このような力石は、当時農家の最大の収入源であった大根をつけるタクアン石であったようです。 |
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氷川神社(沼袋) 沼袋駅徒歩6分 |
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妙正寺川の低地を南に見下ろせる高台にあり、太田道灌の陣屋が設けられた所と伝えられています。境内には、シデ・マツ・ヒノキなどの大木が繁っており、ここには武蔵野の林の面影が残されています。 これらは保護樹林に指定されています。8月の第3土・日には夏祭りが盛大に行われています。この神社には以前「道灌杉」と呼ばれる杉がありました。 文明9(1477)年4月、太田道灌と豊島泰経ら一族が江古田が原・沼袋で最も激しく戦闘を交えたのは、この神社から新青梅街道周辺であったと推定されています。 その時、太田道灌が社殿の前に苗木を植え、勝利を祈願したものが「道灌杉」であると伝えられています。この木がそびえ立っていた当時の写真では、高さ30メートルに達し、樹齢数百年になると思われる巨樹でした。 しめ繩をめぐらし手厚く管理していましたが、惜しくも昭和17年に枯れ、今は切り株だけが残っています。 |

宝仙寺 中野坂上駅徒歩5分 |
この寺は、平安時代後期の寛治年間(1087~93年)源義家が奥州の清原家衡を征討(後三年の役)しての帰途、父頼義が建てた大宮八幡神社(杉並区)のそばに創建したのに始まります。
現在の地に移ったのは、永享元(1429)年といいます。
山門を入ると左の大きなイチョウの根元に中野町役場跡の石碑があります。
明治28年に役場庁舎が建てられ、昭和初期まで使用されていました。大イチョウは戦災に遭ったものの現在でも健在です。
その他、近隣の農家で使用していた石臼を集めた臼塚、ハス池、六地蔵などが境内にあり、節分に行われる僧兵行列は有名です。
また、この寺には堀江家の墓所があります。堀江家の起こりは明らかではありませんが、十二代重賢の徳川幕府への届出書によれば、越前(福井県)から同家の先祖、兵部という人が農民十数人とともにこの地に来て、弘治元(1555)年中野の開発に着手したとされています。
当時、関東を支配していた小田原北条氏から小代官に任ぜられ、江戸開幕後、歴代の当主は、中野村の名主に任命され、中野とその近郷の有力な指導者となりました。
堀江家がはたした業績によって、中野村はしだいに発展していきました。
その間の村政及び幕府との関係文書は、現在「堀江家文書」として東京都立大学に保管され、研究に供されています。
堀江家は、将軍鷹場の村々への御用触次、青梅街道中野宿の問屋場役人、組合村寄場役人のほか、江戸城内への種物・なす苗の上納など各方面に事跡を残しましたが、明治以降も中野の町村政のためにはたした業績はまことに大きく、現在の中野区の発展の礎となっています。 |
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童謡「たきび」のうた発祥の地 新井薬師前駅徒歩5分 |
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今も人びとに愛唱されている「たきび」の歌。
この童謡の作詞者・巽聖歌(本名 野村七蔵 1905~1973年)は、岩手県に生まれ、北原白秋に師事した人で、多くの優れた児童詩を残しました。
聖歌は、この詩が作られた昭和5、6年頃から約13年の間、功運寺のすぐ近く、現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。
朝な夕なにこのあたりを散歩している時、ちょうどこの家の庭でたき火をしている光景に出会い、「たきび」のうたの詩情をわかせたといわれています。
歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えていくなかで、幹まわりが3~4メートルもあろうかというケヤキ、ムクノキ、カシなどの大木と、竹の垣根が続き昔の大農家の面影を残しています。
歌の中にでてくる「サザンカ」は、向かい側の農家の生け垣だったそうですが、今はその面影をとどめるものはありません。 |

中野サンプラザ 中野駅徒歩1分 |
中野駅前にある宿泊・音楽などの複合施設で、特にコンサート会場として有名です。
1973年6月1日開業。旧労働省所管の特殊法人でありました雇用促進事業団(現在は独立行政法人雇用・能力開発機構)によって建設されました。
この時の正式名称は全国勤労青少年会館。
事業団が独立行政法人化されることに伴って売却されることとなり、中野区と金融機関・企業等が出資して所有会社「株式会社まちづくり中野21」および運営会社「株式会社中野サンプラザ」が設立され、2004年12月より民営化されています。 |
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哲学堂公園 新井薬師駅徒歩12分 |
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哲学堂公園は、明治39年に東洋大学創立者井上圓了博士によって精神修養の場として開設されました。
哲学や社会教育の場として整備された全国に例を見ない個性的な公園といえます。
昭和50年に中野区立公園となってからも、古建築物の修復、整備を重ね、又区内でも有数の花の名所として親しまれる公園となっています。
名前の由来は、井上圓了博士が、明治37年小石川原町(文京区白山)に開設された哲学館大学(現東洋大学)を記念して「四聖堂」を建設し、これが「哲学堂」とも称されたのが起こりです。 |
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